悟りの話をしているスピリチュアルなユーチューバーって結構いらっしゃるんですが、悟っている人の誤解をしているケースもあるなと思っておりまして、それを語っていきたいなと思います。
ずばり一つ目の結論をお話しします。
悟っている人はお金や貴金属を求めていくというなことはしません。
大事なことはその意味です。
お金を引き寄せる話をしながら、悟るというテーマを話している方がいますが、ぐちゃぐちゃになっています。
悟っていく人というのはブッダのことを指していますね。
ブッダは悟った人ですから。
ブッダをイメージして頂けるとわかりやすいと思います。
ブッダはお金を扱いません。今でも悟りを目指していく人は、お金に触れることをしません。日本の僧侶をみているとわからなくなると思いますが、実際、上座仏教と言われている方々は、お金に触れることは戒律でも定められていますね。
悟りというのは幻想を看破していくことになります。こういったお金というのが概念の世界であり、人間が作り出した幻想であることを看破したら、お金を求めるという事はないんです。
同様に身なりが華美な服や貴金属を身にまとって悟りを語っている方がいますが、悟っていません。悟りというのは、そういったエゴによる概念が消滅しているので、華美な服や貴金属を身にまとうということに、まったく興味がないです。
二つ目はお酒をのみません。
お酒は嗜好品です。つまり生命に不可欠な食物ではありません。ですから、こういったものを好むという性質は生まれません。
どうなるかというと好き嫌いもなく、何を食べても感謝して食べられるようになります。そして生命に必要なだけの食事を食べるだけです。こういった状態になっていくので、お酒を好んでいますという方が悟っていることはありません。
三つ目 音楽、テレビ、芸能を見たり聞いたりしません
芸事というのに、全く興味がなくなります。
悟りの世界では、こういった娯楽というのは全く無意味な世界であることを理解しています。厳しいことを言いますと、娯楽というのはエゴを刺激する概念になってしまっています。ですから悟った人言うのは、そういったことにまったく無関心になります。
まとめ
今回は悟った人にない3つの特徴をあえて話しましたが、それ以外にもたくさんあります。仏教では227戒律を上座仏教では定めていますが、これは悟った状態の日常生活をあわらしたものとも考えることもできるんです。悟った人は戒律を守るのではなく、勝手にそうなっていき、修行僧はエゴによる誘惑と闘いながら戒律を守るという視点でやっていますが、ここが転換するのが悟りです。
それで私が悟った人にあったことがあるかですが、悟った人に私も教えを受けておりました。その方は禅僧でしたが、服装にも興味がないですし、お金に興味がないですし、流浪の旅に出ているような方でした。話していると何にもないんです。軽やかに何にもとらわれずに生活してる方でした。面白いのは、道を歩いていてもその辺の方に声をかけたりするんです。人間の概念にとらわれて居ないんで、私たちが思っているとらわた生活をしていないかたでした。
スピリチュアルではあまりにも悟りが誤解されているので、安易に使用されていて、私は悟り自体は、覚醒や統合と違って、かなり特殊な領域に達しているかたであるとリスペクトしています。
ですから、誤解されて発信されている方が多いなと思い
発信させて頂きました。
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