真理(法)の入り口とは
見ているのでもなく、聞いているわけでもない
良いもなく、悪いもない
失敗もなく、成功もない
はじまりもなく、終わりもない
生まれてもいなく、死んでもいない
あちらがなく、こちらもない
相手がなく、私もない
対象がなく、比較がない
だから呼べる名は何一つない
楽しみもなく、苦しみもない
過去がなく、未来もない
実態がなく、刹那のきらめき
観察者はなく、気づきもない
付け加えるものがない完璧な世界
自分の理想を描くことなく、コレはただある
どこかへ行くことはなく
どこかを目標とすることはない
これが法(真理)の世界の入り口
坐禅と瞑想の一番の違いについて
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坐禅で行うことは、何かをすることではないですね。
只管打坐といった道元禅師の言葉は、とても美しい輝きを今も放っています。
道元禅師が持ち帰った法は、深遠な言葉として1,000以上前に文字にされました。
まるで秘密の暗号のように、普通に読んでも何もわからない世界。
またそれ以降の禅の傑出たちよりも、より最短で本質があらわれている。
現代になって原始仏教が日本に入ってきました。
マインドフルネス瞑想も流行ってきています。
この結果おもしろいことが起きています。
気づきです。サティという概念が入ることで、瞑想と坐禅が整理整頓されていないんですね。
私も気づきというのは、瞑想という観点では非常に大切な概念と考えています。
ただ坐禅の世界には、気づきやサティはないんですね。というよりいらない。
なぜかというと只管打坐だからです。
身心脱落した世界に、気づきはありません。
坐禅会の残念な所とこれからの坐禅会について
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こういったやり取りは座禅会でもあまりされません。
残念ながら現在行われている臨済宗や曹洞宗の座禅会は、
パンフレットみたいなものには、足の組み方などやり方に終始しています。
つまりあり方についての説明なく坐禅会のほとんどが安易に行われています。
坐禅会にお世話になった人間からいうと、非常に残念でなりません。
緒縁を放捨し、万事を休息することや不思量、作仏を図るなと説明されているのに
道元禅師が坐禅のあり方について坐禅儀で書かれているような説明がないんですね。
結果、坐禅会がどうなったのかというと考え事や居眠りの座禅になってしまっている。
または警策で背中を打ってもらう機会になっている。
体験する過程で心身のあり様に向き合う方は少ないのではないかと思います。
もう少し居士林などの空間で、真剣に在家の方たちが坐禅に向き合う場があって良いように思います。
さらに言うと僧侶でさえ、坐禅を行う時間よりも作務や催事に充てる時間が多く
あまり坐禅にかける時間がないという話も聞いたことがあります。
私は原始仏教で行っている瞑想やマインドフルネス瞑想とは一線を画する
本質にダイレクトに向き合う心理を達観する坐禅に日本中で取り入れてほしいと思いますし
真理(法)の入り口に立つ坐禅であることを願っています。
BY天導
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