最近、統合の視点でいくと真の世界平和ってどうしたら叶うのかなと思う事がありまして、一つの動画にしたいと思いました。もしよければ最後までご視聴頂ければと幸いです。
まずはじめの前提で統合等はあくまでも自身のことですが、ですから統合を論じるのは、あくまでも自分軸、周りのことではありません。ですから真の世界平和を考える際に、今回はもう少しメタな視点にあえて立って、世界が平和になっていくというのが実際に可能なのかを想像していきますので、ご理解ください。
みなさん統合って、2極を超えた争いがない意識であるため、そういった集団が平和な社会を創造できることは容易に想像することができますね。実際にこれって可能なのかということを少し考えたいと思っています。なぜかというと過去になし得たであろう縄文時代などの可能性のある文明と大きく違う点があるからです。
何が違うのかわかりますか?
今回私たちがやろうとしている話は、国という単位や世界という単位になるという事です。つまり単純に人数が多いわけですね。世界人口は約80億人ですし、日本人は約1億2千5百万人という事になります。これは当時の古代文明の人口からしても相当な数となります。
統合した状態というのは2極を超えていますが、統合していない状態は分離した考えを持っています。この根底には対立の概念が根付くため、争いの周波数をもった人間の人口数が増えれば増えるほど、争いの可能性が高くなってきます。
こう考えていくと次元上昇するというのが如何に無理ゲーのような状況になっているかが見えてくると思います。けん引役が必要なのは言うまでもないことで、分離から統合への反転は、実際にはそう簡単には起きません。そうすると真の平和社会の可能性が見えなくなってきます。
ここで私が人口数といっているのは、統合した意識による次元上昇した社会を形成するには、人口規模がとても重要な要素になっていると感じている為です。
どのくらいの規模が良いのかと言えば、私はできるだけ小規模にならないと難しいと考えています。どのくらいかというと村とか民族いう単位です。かなり小規模です。いって数百人単位というところではないでしょうか?
なぜそう感じているのかというと、マザーテレサがいうように愛の反対は無関心なわけです。この統合した意識を全体で構築するためには、分離してしまった人に対する積極的な愛のあるかかわりがマストになってきます。
村であれば想像できると思いますが、村長を筆頭に、族長など、思いやりをもって積極的にかかわる人たちがいることが想像できると思います。そういった積極的な関与が無くては平和は維持することができません。積極的な関与に必要な中で、皆が愛される社会には、心の余裕が必要です。これは忙しく働いている社会では、我を失うまで働いている社会では生まれません。
またお金という概念にとらわれている社会からも生まれません。お金という概念は、歴史的に見ても意図的に作られた概念です。これも分離意識による煩悩によって生まれた概念ですから、平和な社会の発展の先に見えるものではありません。お金という概念に価値をつけることによって、持つものと持たざるものという優劣をつけ争いを助長させてしまっています。持つものは最も幻想を抱えているものであり、不安が強く、究極的には所有することができない全てのものを持とうとする幻想に囚われて発展してきた。お金を持つもの持たざる者という社会から離れていくためには、ブツブツ効果や互いの得意な貢献による価値の交換社会が生まれていく必要があり、それは大規模になると貢献が地域単位で広くなり互いに理解し合える環境ではないため、小規模な地域単位で成立し得るかたちにすることで、仕組みが複雑性を持たずに、成立し得る可能性があります。
また小規模と言っている先でわかるのは、資本主義経済では平和な社会は困難なことを表しています。私たちがやらなくてはならないのは、自然との共存です。自然の破壊ではありません。ですから自然に価値をつけ売買したたり利用したりしていく、破壊を前提とした資本主義経済のあり方は、基本的に思想の根底に分離的な意識から生まれています。また環境汚染の排出ガスまでお金で媒体するわけですから、自然との共生が難しい仕組みであることが容易に想像できると思います。そういった状況ですから、自然に関する扱いも改める必要性があるように感じます。土地や自然を所有物のようにしてきた人間社会は、結果的に墓場までもっていけないにもかかわらず、所有という概念により、価値を変遷させてきました。こういったことも超越していく必要があります。そもそも自己が自分のものではないですから、最後はすべてお返しです。
さいごに
突き詰めていくとどうなるのか。社会は小規模になります。そして自然と共生された社会、心に余裕のある社会、愛のある社会となりますので、結果的にとてもシンプルな生活に戻るという事がみえてきます。テクノロジーとの融合が可能かは、非常に微妙です。テクノロジーは煩悩の歴史です。人間は便利にしようとして、より分離意識を増大させてしまうので、統合に向かった社会発展にいく可能性が極めて難しいです。テクノロジーの活用は、村であれば村長のような真理を体現した人間のみが活用するなど、使用を限定する形でないと、テクノロジーは諸刃の剣になるのではないかと思います。力には責任が伴うからですね。
コメント