一瞥体験者が語る人間に自由意志があるのか

スピリチュアルメッセージ

瞑想というのは面白い、日常生活にそのまま染み込んでいくからだ。

そしてもっと面白いのは、科学の先端に近いことを体験によって、ある程度語れるからですね。

私にとって最近興味深いのは、自由意志はあるのか?という問いです。

これは、人間には自由意志はないということを話している神経科学者が出ていることで起きていますね。

そして非二元、ノンデュアリティのなかでも自由意志がないという話をしている方も多いですね。

私は、このテーマを瞑想体験の中から話をしたいなと思っています。

前提に三つの定義を申し上げますね。

自由意志: 「自分の意思で行動を決められる能力」

準備電位: 「体を動かす前に脳が無意識的に発生させる電気信号」

自動思考: 「意識せずに自然と浮かんでくる考え」

 

【1.前提】

まず科学で言われているのは、私たちの脳内は意識的な決定を示す電気信号の0.35秒前には、それを促す無意識的な準備電位が表れているという事ですね。これはリベットの実験によって明らかにされましたことですね。つまり、私たちが意思決定をしたと報告する瞬間よりも前に、準備電位が確認されている、無意識の脳活動が行われている可能性ということですね。そうなると自由意志が後付けということになるわけですね。さらに、0.2秒後前であれば、脳が指令する動作を拒否できるという話もあるとのことです。

つまり何かをしようと意思から脳活動→運動ではなくて、脳活動→意思→動作という流れになっているということですね。さらに変換すると無意識→意識→行動という流れということになりますね。

私たちは自分の意思で行動するという認識を生まれてからずっと思わされてきたわけです。

ですから自分で全ての動作や行動を行っていると思い込んでいるということになるわけです。

これは、自動思考という思想も類似した現象に思えます。

自動思考も準備電位の話のように、意識する前の現象として自然に浮かんでくる思いが発生しています。ですからこの二つは意識をする前の現象であるので、自分の意思があるのかという問いになるので興味深いですね。

【2.瞑想体験からの推論】

ちなみに私はこの仮説に対しては、非常に興味深く思っています。

なぜなら瞑想中というのは、この準備電位である運動領域での電気的な活動ですが、私たちの瞑想で取り扱うのも意識的にコントロールできない思考プロセスである自動思考だからです。

 

例えば怒りという衝動は、とても速い速度で体をかけ上げる電流のようなものですね。これを感じられる方少ないのかもしれませんが、この指令をピタッと止めた瞬間というのは、駆け上がっていくエネルギーを選択しなかったという事だけが残ります。そのエネルギーはある程度の時間と共に消滅していくわけですが、怒りというものが、私が怒りたいと思ってと言うよりも、受動的におきた事象に対しての反応として、私たちは怒りを生成しているように感じます。また怒りというのは動作にも影響が生じますが、それを制御する瞬間があるようにも感じます。それによって怒りを生成する衝動の刹那でストップをさせるということが実際に感じられているわけです。

例えばもう一つ上げると、タバコをすうのを辞める時に浮かび上がった自動思考の回数は、どんどん吸わなくなった期間が長くなれば減っていくことになりますし、逆に断酒していた状況からお酒を飲む回数が増加するごとに、浮かび上がっていく飲みたいという自動思考は増えます。こういったことから、ある特定の無意識化にある自動思考の方向性を変えていくことはできると思われます。

そもそも自動思考というのは、私がコントロールできないことです。ふと浮かび上がっていくものとしてありますね。この浮かび上がったものを選択することで、自身の意思による思考が湧いてくるのように感じますので、実際に手を付けないということを瞑想ではずっと行っていくわけです。つまり自動思考の生成消滅を気づきによって見ていく作業をずっとしていることになります。

これができる状態になって行くのに、ある程度の成熟度は必要なわけですし、全ての浮かび上がった自動思考(想念)を全て取り扱えているかというと、自身の意思による思考に取りつかれている現象があり、それを雑念としてみなさん嫌っているわけですね。

ちょっと話がそれました。

こういった瞑想体験をしていくと、日常の中でも半瞑想状態で日常を過ごすことができてきます。というより瞑想をしているように日常を送っている感じになってくるんですね。そうするとまさに準備電位のような形で高速で浮かび上がってくる思考や行動に対して、自身が無意識的におこなっているものと意識的に選んで行っているものがあること気づきます。

この準備電位による運動要素と自動思考による思考要素のこの二つの感覚を私なりに日常生活に落とし込んでいくと、一つの方向性が見えてくる感じがあります。

何かというと、私たちの自由意志はないように思えますし、あるともいえるとも言えます。もう少し具体的に考えると、私たちの思考過程や動作過程による始まりについては、私たちは意識していないし、コントロールできないという意味では自由意志はないと感じます。ですが、私たちがその出発点に気づきをいれて選択する瞬間的機会は与えられているということです。その速度が速いため、ある程度心が静まっていないと、この気づきは入りませんし、結果的に意識することもなく無意識的な選択を遂げているように思います。

その上で行われている出発点としての運動や思考というのは、ある種仏教でいう縁起によって、自動的に行われてるオートメーションのような状態であるのですが、これを私たちは気付きによって、少しずつ変遷をさせていく存在であるように感じています。

つまり、オートメーション化された運動や思考の出発点も、その過程での瞬間の気づきにより運動や思考を選択しないことによって、別の縁起が生じて、オートメーション化された運動や思考の出発点も変化していく可能性があるということです。

これは思考の領域であったり、運動の領域でも感じられることです。たとえば、自動思考に気づきが入ることで自身のパターン化された自動思考のパターンは変化が生じていることに気づきます。また運動についても加齢であったり、運動習慣による、運動パターンにも変化が生じていることに気づきによって可能です。これがなければ、そもそも運動パフォーマンスもあがりませんからね。

例えば動作で言えば、足を組む習慣ってありますよね。これを選択肢しない習慣が身に着くと自然に足を組む姿勢を取ることをやめていきますね。そういった準備電位も生じなくなってくるわけです。同様に姿勢もそうです。準備電位があるとしたら、猫背も繰り返し動作によって改善されたりするわけですね。特定の動作を選択する出発点がどんどん変遷していくことは皆さんも体験があると思います。私は20年以上身体感覚を大切にしてきたので、こういったことをずっとやっていくうちに、マインドにも変化があるので、結果的に自動思考も姿勢や常日頃取る筋肉の緊張度などによっても影響されていくことも感じています。

このように準備電位や自動思考による出発点による変遷は、自由意志による変遷はないものの、気づきによる選択の可否により、微細な変動をしており、自身が意図する方向かは別として、意識することができない出発点である準備電位や自動思考による選択は気付きによって結果的に変わってくるということが体験的に感じられています。

 

【3.まとめ】

自由意志とは何か? 私たちは自分の行動や決定が「自分の意思」で行われていると信じています。しかし、科学的な研究ではそうとも言い切れない結果が出ています。例えば、リベットの実験では、脳が行動を起こす準備を始める「準備電位」が、私たちが「動こう」と意識する約0.35秒前に発生していることが示されました。つまり、私たちの行動は、無意識のうちに始まっている可能性があります。同様に自動思考は意識よりも前に起きており、自分で意識的にはコントロールできないことがわかっています。

ただ瞑想を実践していると、自然に浮かび上がる「自動思考」に気づくことができます。たとえば、「怒り」も自動的に生じる反応です。瞑想中、怒りが湧いたときにその感覚をただ観察し、それに反応しない練習をすることで、私たちはその衝動を制御できる瞬間があると気づきます。また運動習慣も、気づきによって特定の運動習慣(足を組むとか)をやめることができることがわかりますね。

ゆえに自由意志はあるのか? 瞑想を通じて気づいたのは、私たちの思考や行動の出発点は無意識的ですが、そのプロセスの中で「気づき」を入れることで、反応を変えることが可能だということです。完全な自由意志があるとは言えませんが、私たちは選択する機会を持っているとも言えます。

結論 自由意志とは、全てを意識的にコントロールする能力ではなく、無意識的なプロセスの中に気づきを入れ、より良い選択をする能力ではないかということです。そしてその無意識的なプロセスの出発点は準備電位であり自動思考であったりします。これを変遷させていくことが気づきによって可能です。そしてこの変遷させていく方向性も、ある種、因果法則を理解することでより近い形に変更することができます。今回は因果法則については、長くなってしまうので、言及をさけることにしたいと思います。

 

あとさいごに

一瞥体験からの推論については、ユーチューブにてご確認ください。

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