生まれ変わりと自動思考の関係について

スピリチュアルメッセージ

前回は人間には自由意志があるのかについて私なりの考えをまとめてみましたが、その際に自動思考について、自由意志がなく浮かんでくる思考と定義して話しました。ではこの自動思考とは一体何なのかについて、宿命と運命、天命との関連性を踏まえて話をさせていただければと思います。

1.自動思考とは何なのか

まず自動思考は自分の意志でコントロールができない浮かび上がっていく思考ですね。というのは自動思考は、浮かんでは消える、もしくは浮かんではとらわれるものとして、1日に6万回はしているとされている、自身ではコントロールできないものと言われています。実際マインドフルネス瞑想をやっている方、瞑想をそれなりに実践している方々は、この話をある程度の体験とともに理解できるようになっていっているかと思います。

そして滑稽に思えてくるはずです。

例えば、これってなんで急にカレーが食べたいとか、コーヒーが飲みたいとか、神社にお参りしたいとか、思うのかと。それも突然ですよ。一般の方は、自分でやっていると思っているわけですけどね。この自動思考は、ある種、自身を定義づけられるものがない、まさに自由意志のない不思議な世界ですね。

同様にわかってくると自分でやっていないことが多くあることに気づきますね。

例えば見えているものは、私自身がみていませんね。しっかり対象を見ているという完全受け身の状態です。聴くも感じるも、5感は全て完全受け身です。ですが、人間は、残念なことに正しく理解ができていないまま人生を過ごすと、これを自分でやっているかのように誤認して生きています。そして言葉としても見る、聞くなど自身がまるでやっているかのような概念になっています。実際には、見るものはまるごとそのままそうで、聞くは聞くという意識もなく音がダイレクトに入ってきます。そしてさらに、人間はそこに余計なものを付着させました。この見たものはAさんであるという形で、名称を付けて対象を分けてきましたね。同様に聞くことによって鶏ががコケコッコーと鳴いているという風に、鶏という名称を付けて、さらに音もその音自体をわかりやすく分類するために日本人の概念としてコケコッコーと鳴っているとしていますね。ただ海外ではそれぞれ音の捉え方が違います、フランスではココリコ、イタリアではキッキリキーなど。さらに人間の動作を人間は正しく自分で行っていません。歩くことを意識的にやってしまったら、右手右足が同時に出た経験はないですか。というようにリズミカルな歩行もそうですし、呼吸もそうですね。自身で行わずして勝手にやってくれているわけですね。そんな状態なのに、自己を自己として確信のあるものとして、人間は認識して生きているわけですね。これを仏教では無明と呼びましたね。まったく迷いの世界をいきているわけですね。

私は、自動思考の不思議さをどのように考えているのかというと、縁起で考えます。つまり私たちは、生まれたという最後に死を迎えますね。これは一般論です。また生まれたというのも重要ですね。自らではないということですね。こうゆう摩訶不思議な状態の中で生命が機能していますね。こうゆうわからないことは無視しながら科学というのは、ある特定の領域でわかっていることの中で、自分を定義していまし、自身を自身たらしめていますね。少し脱線しますと夢ですら意味がわからないわけです。なぜ人は眠り、夢をみるのか。これも自身では全くしていない行為です。どんどん話していくと、皆さんは自分って何だとなるわけですね。これが本当に私とは何か、ということを探求するスピリチュアルな旅に出て行く出発点ですね。そして話を戻すと生まれて死ぬ、これを繰り返していますが、一般的に生きているとされている人間も同じ細胞が長年維持されていることはないとわかっていますね。つまり生成消滅があらゆる自身の肉体にも起きているわけです。そのつどまったく新しい自身として瞬間瞬間を生きているわけですね。ですから、このいわゆる生きていること時代の生成消滅を考えれば、死んだとされる瞬間の後にも異なる生成消滅の縁起が生じるというのは容易に想像ができると思います。というのも私も以前からなぜか、瞑想中によく幼い時の忘れていた人の名前や様子のイメージが浮かんできたり、さらにさかのぼっていくと明らかに自身の様子としてインパクトのあった過去世の自身の姿をなんどか見たことがあります。これは感情を伴うものとしてのイメージであり、おそらく過去にそのようなことをしていて、この今私が行っているであろう自動思考が生まれたことを感じさせてくることがあるわけです。

実際に、例えばリトルブッタという映画の中でも、高僧がなくなったら、それをリンポチェたちが探しにいく内容が描かれていて、転生された魂の位置を把握し合いに行くという映画がありますね。映画の中では3人の子供が選ばれて、その高僧が大切にしていた身に着けていたものを自身の物であることを明らかに複数の物から見つけられるシーンがありました。同様にキリスト教圏では輪廻転生については否定的であるにもかかわらず、子供たちが過去の911の被害者であったり、日本の侍であったことなどを幼少期に言葉がでるようになってから語り出すことがあります。特に夢の中でそのシーンが繰り返されて、夜泣きがとまらないことが多いですね。そして実際にその911の話で言えば、被害者の友達に会って、話をするとその子供たちの話していることが、その友人との固有のエピソードでしかわからない、重要な内容を子供が話すことによって、生まれ変わりとか輪廻転生があるのではないかという話がありますね。この話は、少し深堀すると面白いです。思考パターンの一部は似通っていますが、あきらかにそのものと違う事も観察できます。その子供は完全に100%同じように生まれ変わることは無く、そのあるしゅその影響を受けていることはあきらかではあるものの、その子供自身の特有の形成も同時にしているように感じられます。

2.自動思考と輪廻転生を結びつけた結論

ここでこの自動思考と輪廻転生を結び付けてみましょう。つまり私は自動思考というのは、ある種生まれる前の生の蓄積によって、なんらかの浮かび上がる思考が生まれていると考えています。そうすると説明がしやすくなります。そして、浮かび上がった思考は、前回お伝えしたように気づきによって変えることができます。つまり歩行であれば、足の運びの着地点や筋肉の緊張度や姿勢などを身体感覚を感じながら変更をかけていくことで、運動パフォーマンスが向上するのと同様に、自動思考も数多く浮かび上がってくる思考の中で、自身がより良き選択となるように、善行為に結びつくであろう自動思考をできるだけ選択し、悪行為につながる自動思考をできるだけ選択しないことによって、よりよき人生への変遷が遂げられるように感じています。カルマという言葉を一つ足して話をするとブッダは、悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に襲われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。つまりじわじわとその人の自動思考を汚染するかのように思考パターンに変化が生じるのは、人生をある程度経験していればわかると思います。

3.運命と宿命との関係について

ここで運命と宿命を織り交ぜていきたいと思います。

私たちは生まれてから変えられないものがありますね。例えば生まれた場所や生まれもった力のようなもの、さらに言えば私は人生は未来が決まっているとも思っています。定められた出来事にどのような心であるのかが大事であるという事と、未来に一筋の線のようなものものあり、その上を歩んでいくのですが、その線の方向性を少し変更させていく、所謂スピリチュアル的にいえばパラレルを変えていくことが運命という風に捉えています。運命は運ぶと書きます。つまり自身で変えていくことができる変数のようなものですね。これを観照者の視点、気づきの視点を使って少しずつ変化を加えていくことで、決定論的に人生を決めるのではなく、変化の変数が与えられている存在として今生何を私たちはするのかが、とても大切なことと認識するに至りました。では天命はどうゆうものかというと、より良き選択をずっと続けていくと、人生が最適化されていくタイミングを感じる方がいると思います。思うようにできる、願ったものが叶う。この力を得ていくとある種天の命ずるままに人生を生かされた存在として全うする方々がいると思っています。この天の力の中で自身がこの世でやっていく使命をもって生きている存在を天命に生きている人と認識しています。

悟りというのは、この積み重ねにより善行為が積み重ねられて最終的に王子として生まれた釈尊が、最終的な人間としての生を完成させるだけの蓄積の体制として、悟りを開いたともいえるといえます。

ですから私は好き放題生きるのではなく、それぞれが今よりもより良きように生きることがとても大切ではないかと思うのです。

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