【40代以降】覚醒が起きると暇になる?「プレゼンスへの転換」

スピリチュアルメッセージ

今回は、覚醒が起きると起きるに日常の変化で意外と皆さんが語らないことをお話ししたいなと思います。皆さんは日々の何かやることに追われていませんか。多くの人は、日々のやることで忙しく日常を過ごしている方が多いのではないでしょうか。やることがあるというのは、どのように感じているかは別として、貴重な体験ですね。必要なタイミングで必要な事象が生じているとしたら、そのやる事の実践には、魂の成長のカギがありますからね。ただ、今回はこういった一般的なスピリチュアルな内容を語る予定はありません。覚醒していくにつれて起きてくる事象について、今話したことと関連する内容を上げていきたいと思います。

みなさんは日々生活する中でやることにとらわれていませんか。何か日々の生活でも何かやることないかなと見つけて、何かをしようとする。スマホをみる、テレビをみる、音楽を聴く、旅行に出かける。まるで隙間を埋めるように何かをしたがる習慣を身に着けてしまっています。それも時代と共に変遷していますね。例えば電車を想像してください。一つ昔の電車と言えば、新聞を折り曲げて読んでいる人が多かったように思いますね。同時に、読書をしている方も多かったです。これが、今やスマホを見る人が圧倒的に多く、新聞を読む人や読書をする人というのは圧倒的に減りましたね。私たちはやることを探し、やることは時代の潮流を得て、集合意識の中で変遷していることの一つの症状ですね。

これが覚醒していくとどうなるのかというと、やることがどうでも良くなります。やることに追われなくなります。やることに大きな意味はないと感じてくるからです。転換が起きてきているですね。だから何かをやろうとする、隙間を埋めようとすることが減ってきます。じゃあ空いている時間何をしているのか、やることがどうでもよくなったらどうなるのかというと、ここで結論をいいます。あることに転じていきます。やることではなくあることになる。やることではなく在ることになるというのは、どうゆう事でしょうか。

これは何かをやるという事にとらわれない存在としてのあり様だけになるということです。先程の隙間時間を埋めるということがなくなったときに、多くの覚者が何をしているのかを観察してもし気づくことが出来たらわかると思いますが、何もしていないです。ただ在ることの重要性に気づいた人は、何かをやろうとしません。その様子を見ているとまるで瞑想をしているかような心の静寂を確保していますね。ただ必要があればやります。その出来事があれば対応します。ただそこにはとらわれのない、出来事の連続体があるだけなんですね。

ではここでやることにとらわれた生活をもう一度思い出してみましょう。やることにとらわれると、何をするのかにずっと追われています。何かをしていないと落ち着きません。思考は果てしなくうごめいています。心は常に動じている状態です。そして次々にやることを見つけていきます。そしてやることにこだわっていくようになります。もっと良いものをもっと楽しいことを求めてやることを選択していくんですね。これは言い方をかえると刺激のある生活を求めているということですね。

覚醒した人は、よく目の前のことに集中すればよいと言いますね。目の前のことというのは、何かを求めてやることにとらわれたことではなく、その今この瞬間の出来事のみに対峙しているだけですね。こういった生活に転じていくと、まったく異なる様子になることがわかります。やることからあることへの転換がはかられた生活は、心の状態がまったくことなるものです。覚醒していく過程で、やることにとらわれている人にとって、ものすごくつらい表現になりそうなのが、出来事に意味はないという事です。言い方をかえるとやることに意味はない。これはスピリチュアルな視点でいう世界で、やることに意味がないことを本格的に自覚していくことで、あることに転換していった結果として起きている感覚です。

ですから覚醒していない人にとっては苦痛としてしか思えない表現になっています。覚醒していくと、こういった一般的に言われている常識が転換するので、覚醒していない状態では、非常に不快に思う表現が多くあります。一般的に人生を送れば、世の中を幻想に捉えることは簡単ではありません。ですがこれを見破った瞬間、私たちがあらゆる概念によって常識を植え込まれてしまっていて、真相がみえていないことに気づくようになっていきます。これは、話せば話すほど、そこに至っていない人に取っては苦痛であり恐怖です。

過去の聖者が脅威に思われた理由もそこにあります。こういった意味で、覚醒したらどうみたいな話がありますが、一般的には脅威や恐怖になるわけですね。ここで争わないためには、相手を選んで相手の状態に合わせるブッダの対機説法によって争いを生まない、優れた方法はありますが、それでもブッダを敵対視した人はいたようですからね。

少し話はそれましたが、やることからあることへの転換が行われた状態が、今回の覚醒のポイントとして挙げた内容です。あることへの転換、みなさん起きていますか。やることへのとらわれが生まれて、沈黙の時間をその静寂のまますごすことが当たり前になっている人は、少なくとも覚醒の出発点には立っていると私は感じます。

ここまで話して、全然そんな状態になっていないと思った方もいると思います。これは、何もしない時間を過ごす練習をすると良いです。例えば瞑想です。瞑想は瞑想をすると思っているかと思いますが、私がおすすめしているのは、何もしないという事です。ただ座っている状態。目も開けていても良いです。全ての事象をそのままにする練習になれてくると、起きてくる現象に惑わされる率が低減します。そうすると日常の中でも何かをしなきゃと追われてくることが減ってきて、あるときやる事に何の意味をない、あることの状態に行き着きます。あることへの転換がおきると、なにも起きていないことに気づくのと同時に、一つなるものとして、ただ在ることの完璧さに気づかれるのではないかと思います。

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