事実というのは、私たちが手を付けない深遠な輝きを放っています。
私たちは今この瞬間という事実の中に身を置いていると満たされている存在ですが、一歩離れると幻想に身を置いてしまう存在でもあります。
これが実際には、ほとんどの時間を幻想の中に身を置いているので真相が見えていない状況なっています。
私たちの目の前に移る世界が、自分ではないものと映り込んでしまい
自分から離れた対象としてみることで、概念を構築していきました。
私たちの目の前で聞こえる対象が、自分ではないものとして聞こえてしまい
自分から離れた対象として聞くことで、概念を構築してきました。
私たちは、そもそも聞いているのですか。聞こえているのですか
見ているのですか、見えているのですか。
この問いに自分がやっていることのように思っているでしょう。
見えている、聞こえているも
実際には私達にはコントールすることができません。
即時そのまま、その映像や音が入ってくるわけです。
ここに意味づけをして、人間は真相の世界を見失いました。
この幻想の世界の乖離を埋めていくことは、何もしないこと、ただ在ることにあるわけですね。
今この瞬間というのは、常に刹那の輝きを放ちつつ、ずっと始まりも終わりもなく存在しています。
このただ在るという事ができないので、人は苦しんでいるんですね。
ただ在るという事はどうゆうことですか。
何もしないという事ですね。何も手を付けないということです。
私たちは何かを求めたりして、常に渇望して、執着し、エネルギーを過去に開け放っています。
今この瞬間に集中した状態になく、ずっと無駄なエネルギーを使いつつづけている存在です。
考えるということを考えて、より迷妄してしまってはいないでしょうか。
だれかが考えることのない世界だよっていったから、考えないようにしたりしていませんか。
考えない世界をもとめても、考えない世界は訪れません。
なぜならただ在ることだからですね。
実際に浮かび上がった想念が消えるわけではありません。
浮かび上がった想念が、あなたを邪魔にしているわけではありません。
浮かび上がった想念が、自身を苦しめ、真理から遠ざけたりするわけではありません。
ただ私たちの日常はこの想念の活用することによって、
様々な選択が生じてもいます。
これが自我の活躍によるものです。
自我の活用によって、選ばられた想念により考えが付け加えられて、何かを好きになったり、嫌いなったり、良いとおもったり、悪いと思ったりして、選択をはじめていきます。
これがずっと人間の歴史上、行われてきた繰り返しの輪廻の世界です。
ですがこのパラダイムを変えるとすると、頭で考えた概念を超えていく必要があるわけですね。
私たちは、すでにその答えを持っています。
というより、みなさん経験者でもあります。
ですがそうなれません。
色々紆余曲折しながら、生きています。
なぜなら人間はただ在ることを忘れてしまったわけです。
ただ在るという事を、考えてしまい、求めてしまったのです。
もしくは、何も考えることなく、来り返しの人生を送っているわけですね。
この局面を打破するには、
私たちは自己を忘ずることによって、
この身の身心におきる全てを知ることになります。
知ることは後です。
在ることは今です。
この刹那のきらめき、今この瞬間の絶えまない完璧な真相の世界に身を明け渡すことによって、スピリチュアルな真理が垣間見えることになります。
ただ在ることをもう少し話しましょう。
ただ在るには緊張はいりません。加える要素が無いからです。
ただ在るには考える必要はありません。思考がない世界だからです。
ただ在るには気づきはいりません。気づきは過去のものだからです。
では今に至るには、至ろうとするのではなく今であることを
はっきりさせていく必要があるんですね。
この世の中は、素晴らしい世界です。
だれもがやり直しがきくわけですね。
なぜなら同じものは二度と起きないからです。
だれもがずっと初めて起こしている真っただ中の今に在ります。
そして私がやっていません。
手を付けくわえない限りにおいては、
私がやっていないのに、しっかり機能していることがわかります。
摩訶不思議な世界です。
生まれてもいないし、死んでもいない
はじまってもいないし、おわってもいない
形があって、形がない
これなーんだという世界です。
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