最近の私のトピックスで関係ある内容ですが、それは子供です。子供のリラックスのリラックスした状態などを、スピリチュアル的にも理想としたりすることもあり、実際に子供とのかかわりの中でどうなのかをまとめてみたいなと思うにいたりました。ですので今回は子供とくに新生児の状態とスピリチュアルな関係について話したいなと思います。それでは早速始めていきます。
1.子供のリラックス状態は理想の姿なのか
子供を抱っこしていると非常に力が抜けているときと、緊張しているときと様々ですね。子供を理想としていることは特に非常に力が抜けている時を指しているように思います。力が抜けていると羽のようにふわっとしながらもずっしりした感じがあります。この位脱力が極端にできるというのはすごいと思います。ただこの脱力の反面、緊張状態も良く見られます。肘や膝を曲げ伸ばしする、背中を伸ばして反るなどの緊張も見られており、常に子供がリラックスしているわけではありません。またもう一つ大事なのは、呼吸数です。子供特に新生児の心拍数は1分辺り100~180であり、大人は60~100位になっています。瞑想を熟知している人は60前後を推移していることが多く、私も平常時であれば、60位になっていることが多いです。これは、何を表しているのかと考えると、心の動揺を示す値として考えることができます。なぜなら、交感神経が優位になると心拍数が上がるからです。リラックスした状態は、副交感神経が優位となり、心拍数は落ちづきます。感情もそうですね。感情が激しく揺さぶられれば、心拍数も上下するわけです。当然、心拍数が上がれば、呼吸数も増えますから、呼吸の緩やかさに、子供の状態は直結していないことも示しています。みなさまも見たり経験していると思いますが、子供は感情のコントロールが未発達なので、突然泣いたりします。泣いている時は、心拍数があがり、呼吸は浅く、リラックスなんてしていません。
ここまで話して分かると思いますが、スピリチュアルで言われる子供のリラックス状態は、実際には子供はリラックスしているかと言えば、リラックスしているかと言えば、微妙なわけです。スピリチュアルな成長と共に見られる呼吸のゆったりさはなく、一部を切り取った話であり、これは実際には私は違うと感じています。
2.子供の純粋無垢さはスピリチュアルの理想なのか
子供は純粋無垢と言われていわれていますが、実際には快不快で生きている様子が見られます。子供は、環境や感覚的な刺激に非常に敏感であり、反応的な状態で不快状態があれば、即時に泣いて、現状を打破してもらえるように働きかけます。そして自身の訴えを何とかわかってもらえるように泣くという様子で不快を表現しているわけです。
よくスピリチュアルでは、子供のように純粋で無邪気に生きるというおしえがありますが、これは、純粋な直感で生きるものを指しているように思いますが、現実的には、快不快をもとにした反応的な生き方をしています。
このように子供を理想として描いた純粋無垢に、思ったことをそのまま実践すればよいというような行動をとることは、わがままを誘発し、エゴを満たす行動を助長する可能性があります。スピリチュアルな成長は、エゴによる欲求に基づいた満足感を求めるのではなく、深い内面的な平野や調和をめざすものです。ですから子供の行動のようにすることは本来の方向性とは矛盾しているように感じます。
3.子供の生き方をスピリチュアルに利用することはできるのか
ここまで話すと私が子供を嫌いのように思ってしまう方もいるかもしれませんが、いわゆるスピリチュアルで子供をテーマに学ぶことを推奨していないことを申し上げたまでです。いわゆるスピリチュアルな成長としては、呼吸は非常に密接に関連があります。ゆったりと深い呼吸と内省した瞑想状態における日常生活には非常に関連があり、子供の状態とはじつは違うんですね。
ここまで話した上で、私が子供から学べることを話します。それは子供という存在そのものです。部分的な何かではなく、子供の存在そのものなんです。このあるがままの子供の存在自体に、学ぶべきものは有ります。不思議なことに、この存在は、犬などの異なる動物にも見守られたリする存在になっていることは、皆さんも一度は映像でみたことがあるでしょう。同様に人間は、自然にどんな子供にも愛をもって接する様子がありますね。この子供を自然にみなが守り育てる存在力。ここに大きなヒントがあるように思います。
なぜならマスターと言われる人は、無頓着な生活をしている方が多いです。見ていると明日を心配したりしていませんし、お金も持っていなかったり、食事も何を食べたいとかもない。ただその場で周りの人がサポートしてくれている。サポートもサポートをお願いするわけでもなく、みなが率先して対応してくれています。
ここには子供と同様の存在力があります。自然とサポートが入る状況が、マスターにもあります。子供は愛らしさみたいな側面ですが、マスターは尊敬と敬意かもしれません。ただ何とも言えない純粋で無垢な存在としてのあり方が類似ている様子も見られます。私の教えを受けたマスターも、町を歩ていれば、知らない人にも声を普通にかける、分け隔てが無いということをすごく感じます。またその場を楽しんでいる。今この瞬間を全力で楽しんでいる様子があります。何か条件やこの場の居心地などは気にしていません。今を全力で生きている姿というのを、こうするんだなということを学んだものでした。そして無邪気に笑うのも似ています。ずっと楽しそうにしている。こんな様子が子供の存在力に類似しているように思うのです。
コメント