今回は覚醒の重要なポイントである「本当の自分ってなんだろう」「自分探し」というスピリチュアルな探求の先にある「自分はあるのか」について3つのテーマで話をまとめてみました。
1.覚醒が始まることで起こる自己の希薄化
私たちは自己を拡張する形で近代教育を受けてきました。そもそも、英語の文脈では「私」という概念が非常に重要視され、最初に据えられることが多く、自由な選択に基づく自己を拠り所にして文化が形成されています。
日本人が「私」というものを強く意識するようになったのは、明治時代からです。西洋思想に根付いた自己の概念は、福沢諭吉の『学問のすすめ』をはじめとする書物を通じて広まり、個人の独立や自立の考えが浸透していきました。また、明治時代に制定された憲法によって、国民に自由と権利が与えられ、「自分」を拠り所にして生きるという考え方が社会に根付いていったのです。
しかし、もともと日本の思想では、個人の幸せよりも家や社会のために尽くすことが重視され、和の精神が大切にされていました。その背景には、儒教や仏教の影響が色濃く反映されており、これが暗黙の前提として文化を形成していたのです。この共同体意識が根強かった日本において、明治時代は個人としての自己の認識が拡張される転換期となりました。
こうした流れの中で、私たちの意識は「個人」「自分」「自我」を拡張する方向へと進んできました。当然ながら、以前の日本人が持っていた集合意識もある程度は残っています。特に昭和を経験した世代は、「向こう三軒両隣」や「お隣さん」「ご近所付き合い」といった感覚を強く持っており、井戸端会議のような交流が日常的に見られました。しかし、都市開発が進み、マンションが増えたことで、隣人を知らないことが当たり前になりつつあります。
スピリチュアルな覚醒の出発点としては、物心がついてから染み付いた集合意識を手放す作業が必要になります。この作業ができなければ、覚醒の出発点に立つことができません。そして、この過程の中核となるテーマが、「自分」や「私」としているものを少しずつ崩し、真の本質を明らかにしていくことなのです。
2.本当の自分とは何か
ここで一つの視点を加えると、覚醒が進むにつれて、自己と捉えていた認識は衝撃的に崩れていきます。では、「自分は本当に存在するのか?」という問いに対しては、物心がついてから身につけてきた「自己」と思われていたものは、実は存在しないと言えます。しかし、私たちはその前提で生きているため、この考え方に触れると混乱する人もいるでしょう。
覚醒とは、アニメやフィクションで描かれるような劇的な変化ではなく、社会に根付いた集合意識による概念が崩れ、再構築される過程です。このプロセスでは、自分の持つ前提が何度も壊されることになり、それを受け入れながら進んでいく必要があります。ある意味で、非常にストイックな作業と言えるでしょう。
その結果として、覚醒を経た人の世界の見え方は、他の人とは明らかに異なるものになります。多くの人が幻想の中で生きていることを理解しながら、それでもなお、この世界の中で存在し続けるのです。さらに、自己という枠組みを手放した先に、より深い意識の広がりが生まれ、本来の自分とは何かを探求する旅が始まるのです。
この旅は、知識を蓄積することとは異なり、自分が築いてきた認識や価値観を解体し、本質へと近づいていく過程です。覚醒とは、幻想を見破るだけでなく、それを超えて新たな視点を持つことでもあります。
この旅は、知識を蓄積することとは異なり、自分が築いてきた認識や価値観を解体し、本質へと近づいていく過程です。覚醒とは、幻想を見破るだけでなく、それを超えて新たな視点を持つことでもあります。
また、自己がないという認識は決して虚無を意味するものではありません。むしろ、自己の幻想を超えた先に、他者や世界との深い繋がりを感じるようになります。この繋がりこそが、真の自己の在り方であり、個の枠を超えた意識の拡張へと導くのです。
そのため、覚醒のプロセスでは、自己が解体されることに対する恐れを乗り越えることが重要です。自己を失うことは不安を伴いますが、それを超えた先には、より自由で本質的な生き方が待っています。これは、単なる哲学的思索ではなく、実生活においても影響を及ぼすものであり、対人関係や社会の見方にも変化をもたらします。
最終的に、自己の幻想を手放すことで、私たちはより自然な形で生きることができるようになります。そして、それは個々の選択や行動が、より調和したものへと変化していくことを意味します。
ちなみに江戸時代の日本人はどうだったのでしょうか。近代の自己の概念が確立する前の時代ですね。いわゆる西洋文化が入る前の状態について、西洋人の2人からの言葉をかりましょう。
エンゲルベルト・ケンペル:「日本人ほど礼儀正しく、満足げに暮らしている人々はいない」
シーボルト:「日本人は日々の生活に満足し、家族を大切にし、礼儀を重んじる」
これは、共同体としての意識をもち、和の精神や調和の精神をもち、自分という概念が大きく確立していない江戸時代というのは、それなりに満足して暮らしていたということになります。つまり言い換えると自分という主張を強く意識することで、苦しみを増幅させていたということも言えるんですね。
「自分がある」の「ある」はどのようなイメージか
「私って存在するのか?」という問いに対して、固有の存在としての自己はあるようで、実はないとも言えます。イメージとしては、「私は有る」でもなく、「私は在る」でもなく、ただ「在る」ということになります。これこそが今回の最終的な結論です。
「私」というものは、本来余計なものなのです。私という概念は、思考によって形成されますが、思考で答えが出るような問題ではありません。この概念は、まるで皮が剥がれ落ちるように、次第に希薄になっていくものです。自己とは、自他を隔てる意識を生み出すものであり、対象を持つことで分離が生じ、分離があるからこそ有無の概念が生まれます。しかし、こうした分離の概念が消えたとき、そこには「空(くう)」が広がります。「空」でありながら「在る」、言葉では表しきれない次元へと向かう旅の中にこそ、スピリチュアルな覚醒の本質が隠されているのです。
こうした悟りの境地に簡単に到達できる人は、非常に稀です。しかし、スピリチュアルの世界では「簡単に覚醒できる」と発信している人が多く見受けられますが、そうした主張のほとんどは正確とは言えません。本当に容易に覚醒できる人は、長い輪廻の歴史の中で積み上げてきたものがあるからこそ可能なのです。仏教で語られるブッダのジャータカ物語のように、何度も生まれ変わりを経て、その境地に至る準備が整っている魂だけが、容易に悟りを得ることができるのです。
したがって、もし「自己が確固たるものである」と強く感じているならば、それは今生での課題がそれなりに多いことを意味しています。しかしながら、人間として、例えば日本人として生まれ、五感が正常に機能し、基本的な生活を送ることができているのであれば、それは大きなチャンスでもあります。なぜなら、そのような条件を備えていること自体が、自己を超えた意識へと向かう機会を持っていることを示しているからです。
この旅路に足を踏み入れる人は、現代においてはまだまだ少数派です。よく「風の時代」や「スピリチュアルな時代」と言われますが、それはごく一部の人たちの間で語られているに過ぎません。さらに、スピリチュアルを商業的な手段として発信している人々の多くは、本当の覚醒について深く理解していないことが多いのです。実際のスピリチュアルな実践について語ることはほとんどなく、仮に話したとしても、それは断片的な情報にすぎません。なぜなら、彼ら自身が真に体験した世界ではないからです。
しかし、こうしてこの情報に触れる機会があるあなたは、大きなチャンスを手にしています。目で読み、耳で聞き、真理に近づこうとしているこの瞬間こそ、貴重な機会です。世界は複雑な因果の法則によって成り立っていますが、今この瞬間にこうした知識に出会えていること自体、非常に素晴らしいことなのです。
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